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随時所感

2012.10.01

改めて尖閣諸島問題を考察する

中国は尖閣諸島(釣魚島)を自国領だと言い、日本は同諸島を日本固有の領土と主張する。

日系百貨店や日系工場を襲撃した中国人たちの中に、中国政府の根拠と日本政府の根拠の両方を理解し、「中国領だ」とジャッジした上で反日暴動を行っている者は少ないのではないだろうか。多方が「釣魚島はあたりまえに中国領なのだ」という、領有根拠をすっとばした思考停止状態と言えるのではないかと推察する。

では、日本人はどうであろうか。

中国人と同じように「日本の領有根拠がいかなるものか」という思考をすっとばして、無条件に「尖閣は日本固有の領土だ」と思い込んではいまいか?

中国の主張する領有根拠と日本の主張する領有根拠を冷静に吟味し、自分が国際司法裁判所の判事になったつもりでジャッジしてみて、初めて自分の意思として尖閣問題を語ることができるはずである。

よって、私なりにその吟味を行い尖閣問題について考察してみた。

中国と台湾の主張はほぼ同一と言って良い。

中国は台湾の漁民が明朝時代(1368~1644年)から漁業活動のために尖閣を利用していたと主張する。また、中国の使節が琉球王国に派遣された際に、琉球列島との境界が釣魚島の東に引かれていたとも主張する。更に、1893年に清朝の西太后が釣魚島で薬草を採取した清国民の盛宣懐に同島を下賜したという。

しかし、中国は同島に軍事、民間いずれもの人員を定住させたことはなく、付近の海域に海軍力を常駐させたこともない。

一方、日本は、それまで一度も尖閣領有を主張したことはなかったが、日清戦争(1894年8月1日開戦)中の1895年1月14日、無人島であった同島に標杭を立てる閣議決定を行い尖閣諸島を日本領に編入した。

そして、同年4月17日に調印された日清戦争終結の下関条約で、中国は日本に「台湾島に関連あるいは所属するすべての諸島とともに」台湾を割譲した。だが、同条約は、尖閣諸島には触れておらず、条約の交渉でも同島について論じられることはなかったという。

日本はこのことから尖閣の編入については日清戦争とは別個のものだと主張している。

それに対して中国は、日本が同戦争の勝利を利用して同諸島を取得した(盗んだ)と主張する。中国は更に「第2次世界大戦でのカイロ宣言、ポツダム宣言の意図は、日本が軍事侵略により中国から奪取した領土を返還させることだ」とも主張する。

1945年8月15日、日本がポツダム宣言を受諾し終戦。

1946年1月29日、SCAPIN677号により尖閣諸島を含む南西諸島の施設権が連合国に移される。そして1951年調印のサンフランシスコ平和条約が発効した1952年4月28日からは米国による尖閣諸島への施設権行使が始まる。(同条約第3条は「(琉球列島と大東諸島を含む)北緯29度以南の南西諸島」の統治権を全て米国に付与した。)同条約は、尖閣諸島には触れていないが、中国の統治に復帰し、中国が領有権を主張した他の諸島には言及していた。(それらの諸島には台湾、澎湖諸島、南沙諸島、西沙諸島が含まれている。)また、1953年には、奄美諸島の日本返還に伴い、琉球列島の地理的境界を再指定。米国琉球民政府は布告第27号で「北緯29度以南の南西諸島」には、尖閣諸島を含むことを示す境界を定義づけた。尚、米国の尖閣諸島統治中、米海軍は同諸島に射撃訓練場を設置し、その賃借料年間11,000ドルを同諸島の最初の開拓定住者の息子の古賀善次に支払っており、この時点までにおいて中国は尖閣諸島に対しての領有権を全く主張していない。

しかし、1968年10月12日~11月29日、日中韓の海洋専門家がECAFEの協力で東シナ海の海洋調査を実施し、尖閣諸島周辺にイラクに匹敵する原油が埋蔵されている可能性が判明すると、1971年6月11日に中華民国(台湾)が初めて尖閣諸島の領有権を主張し始める。

1971年6月17日に沖縄返還協定が締結されると、1971年12月30日には更に中華人民共和国が初めて尖閣諸島の領有権を主張し始める。

1972年3月2日、日本政府(外務省)は「尖閣諸島の領有権問題について」と題した政府見解を発表し中国に反論する。

1972年5月15日、沖縄返還協定が発効し、尖閣諸島を含む沖縄県は日本に返還され、尖閣諸島に対する日本の実効支配が開始し、今日に至る。

以上の証拠をもとにジャッジを行おうと思う。

最大のポイントは、1895年1月14日の日本による領土編入が有効であるか否かという点に尽きると思われる。

確かに日清戦争の交戦中に敵国との境目の所属不明な無人島について領有宣言を行うのはいかがなものかという批判は一定理解できなくもない。しかし、日清戦争は、もはや終盤に差し掛かっており、実際に3ヶ月後には下関条約が締結されることとなる。日本政府としてはもうこの時点には、戦争の勝利を確信し、台湾の割譲など、戦争賠償としての領土割譲を考えていたことは容易に理解できる。そうすると、戦利として敗戦国から領土を割譲させることを想定する場合、予め、自国の本来の領土を確定させておく必要があったはずである。即ち「ここまでは本来の俺の領土、ここからは戦利として割譲すべき領土」と明確にする必要がある。まさか50年後に日本が敗戦することなどこの時点で知るはずもなく、台湾を割譲すれば永久に日本領となることを信じている当時の日本にとって、尖閣諸島の領有宣言は、まだ石油が出ることも分かっていない単なる無人の小島であって、領土拡張的野心から、その領有を宣言したのではなく、これから戦利として広大な台湾の割譲を要求する前に、事前に両国の本来の国境を確定するためになされた行為と推察できる。

下関条約の交渉において、尖閣諸島について全く触れられなかったのは、台湾割譲交渉に際し、本来の国境について両国が、尖閣諸島は日本に含まれていることを前提に交渉が進められていた証拠と言える。

これは、韓国との竹島問題についても同じことが言えるように思う。

竹島の場合は、1910年の韓国併合の前に、どこからが本来の日本で、どこからが新たに併合される新領土(旧韓国領)なのかという、併合前の本来の両国の領土確定のために、まずは併合の序段として韓国の外交権を取り上げる第2次日韓協約(1905年11月17日)締結前の1905年1月28日に日本政府が閣議で竹島の編入を決定した。

尖閣の領有の状況・動機と酷似している。

領土の割譲や併合は、本来の領土の確定があって初めて、どこからどこまでが戦利、あるいは外交成果としての価値なのかが明らかになる。まさか後で戦争に負けて、取り返されるなどとは知るはずもない日本が、どうせ割譲・併合すれば自国領になるのに、いずれも無人のちっぽけな島を単体として重視し、野心的にそこを自国領とするために自国領としたというのはいささか理解しがたい。

また、当時の中国(韓国)にとっては尖閣諸島(竹島)のようなちっぽけな無人島など全く領土的価値は無く、だからこそ日本にとっても中国(韓国)にとっても当時まだ実効支配が及んでなかった帰属不明な島だったのであろう。

しかし日本にとっては、台湾割譲(韓国併合)という目の前に控える広大な新領土獲得のために、たとえちっぽけな無人島であっても事前の国境を確定するという意味において、重要な領有宣言(国境確定宣言)であったと考えられる。(領有が重要だったのではなく領土・国境の確定こそが重要だったのである。国境を確定させるために帰属不明な無人島を扱う場合、その帰属不明島は自国が領有宣言する以外に国境確定の方法はありえない。なぜなら、相手が自分の主権下だと認知していない領土に対して、まさか一方的に他国が「ここはあなたのの領土だ」と通告する国家はありえないからである。どこの国の支配も及んでいない帰属不明領土については、自国が領有宣言し、異議がなければ確定とみなされる。他国から異議が出れば、それは他国に領有の意思が存在する領域であり、そもそも帰属不明領土とは言えないのである。)

そういった観点からすれば、1895年1月14日の日本の領有権宣言は戦争を利用して奪い取った(盗んだ)ものとは言えず、有効であるといえる。

だからこそ、サンフランシスコ平和条約においても、尖閣諸島は、同条約第2条に基づき日本が放棄した領土のうちには含まれず、第3条に基づき南西諸島の一部としてアメリカ合衆国の施政下に置かれ、後の沖縄返還協定により日本に施政権が返還されることとなっている地域の中に含まれているのである。

なお、中国が尖閣諸島を台湾の一部と考えていなかったことは、サンフランシスコ平和条約第3条に基づき米国の施政下に置かれた地域に同諸島が含まれている事実に対し従来、何ら異議を唱えなかったことからも明らかであり、中華民国政府の場合も中華人民共和国政府の場合も1970年後半東シナ海大陸棚の石油開発の動きが表面化するに及びはじめて尖閣諸島の領有権を問題とするに至ったものである。

「石油が出る宝の島なら、敗戦国から取り上げればいい。我々もかつて戦争に負けて取り上げられた。しかし、時代は変わり露骨にそんなことも言えない世の中になってしまった。なんとか歴史認識あるいは歴史的な解釈の中で尖閣諸島は中国のものだと理屈を付ける手段はないか?」これが中国の本音と言えよう。

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